衣笠祥雄さんの嫁や子供、これまでの活躍と名言。ハーフ説についても。

衣笠祥雄さんの嫁や子供、これまでの活躍と名言。ハーフ説についても。

かつては鉄人と呼ばれ、元プロ野球広島で、現在は解説員を務める衣笠祥雄(きぬがさ さちお)さんが、2018年4月24日「大腸がん」で死去されました(享年71歳)。

「誰からも愛される人だった」”鉄人”の愛称で地元広島で愛され続けてきた衣笠祥雄さんの訃報を残念に思います…。


日刊スポーツ

生前最後の野球解説となった19日の巨人―DeNA戦を放送したBS―TBSのコメントのよると、

ここ数年、衣笠さんの体調が万全ではないことはご本人からお聞きしていましたが、ご本人の希望もあって2018年度もTBS野球解説の仕事をお願いすることとなりました。

4月19日のご出演も、野球解説のローテーションとしてお願いし、ご本人からも快諾を頂きました。ただ衣笠さんの体調を考慮して、槙原さんとのW解説という形を取りました。

当日の試合中も、体調が万全ではない様子もありましたが、ご本人の仕事を全うしたいという、強い意志を尊重して試合終了まで解説をお願いしました。

衣笠さんと一緒に解説をした元巨人の野球解説者・槙原寛己氏(54)は24日、TBS「ゴゴスマ」に電話で生出演し、

「解説の日は衣笠さんの体調が本当に思わしくなく、なかなか声が出なくて。いろいろしゃべりたいのに、しゃべれないもどかしさを横で感じていたので。本当に残念」

「野球の現場が非常に好きな方だったので、中継(解説)があるからということで(球場に)来られていたと思うんですよね」

当初、槙原氏が解説を務める試合ではなかったが「(スタッフが)衣笠さんの体調がもう一つなので、槙原さんも横にいてください」と急きょサポート役を担っていました。

「体調が思わしくないというのは数年前からありましたので、大好きなお肉もだいぶ控えられていました。体調がもう一つなんだなというのは感じていました」

今年1月にTBS野球解説者の新年会が行われ、その時には病気を思わせる「そんな感じは全くなかった」が、19日に会った時に「非常にやせられた印象でした」

19日の生中継が終わると、衣笠さんは「今日はありがとな」と繰り返し、槙原氏や実況アナウンサーと握手。槙原氏は「僕が急きょ呼ばれたこともあったので、衣笠さんは『ありがとう』と言ってくださったんだと思いますが、かえって申し訳ないぐらいの『ありがとう』を言っていただきました」

と衣笠さん最後の解説の様子を明かし、悼まれました。

最後の最後まで野球を愛し、かすれた声でお辛そうにも聞こえましたが、笑い声など含め、最後までやさしい語り口の解説をされており、お亡くなりになる数日前であったかと思うと、本当に野球がお好きでいらしたのだと、みていて涙が出そうになりました。

ご冥福をお祈りいたします。

衣笠さんの嫁や子供などのご家族についてや、経歴や通算成績について、ネット上でみかけるハーフ説、ファンへの「お別れ会」の予定、数々の名言など、衣笠さんのことをまとめてみました。

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■衣笠祥雄(きぬがさ さちお)さんプロフィール

山本浩二氏らとともに、赤ヘル打線の主砲として黄金時代を支え、87年引退後に国民栄誉賞を受賞。選手として名言を残し、人格者としても知られていました。

それは「衣笠さんを悪く言う人は居ない」と、愛される選手だった衣笠祥雄氏。

名前:衣笠 祥雄(きぬがさ さちお)
生年月日:1947年1月18日 – 2018年4月(享年71歳)
出身:京都府京都市東山区馬町
身長/体重:175cm/73kg
投球・打席:右投右打
ポジション:三塁手、一塁手

職業:元プロ野球選手、現在は野球解説者・野球評論家・タレント
愛称は「鉄人」。国民栄誉賞受賞者
その後は解説員を務められていました。。

(出典:Wikipedia)

経歴や通算成績についてみていきます。

◎学歴

京都市立洛東中学校→龍谷大学付属平安高等学校と進学されています。

中学校では、本当は柔道をやりたかったそうですが、部活がなかったので、仕方なく野球部に入部したそうです。

しかし、ずば抜けた身体能力の持ち主のあった衣笠さん。メキメキと頭角を現し、平安高校時代、3年の春と夏の甲子園に捕手として出場。チームを牽引し、いずれもベスト8という好成績を残します。

平安高校時代といえば、春夏合わせれば合計70回以上も甲子園に出場している常連校です。

同じく広島東洋カープの選手で、胃がんの発症から復帰を目指して奮闘されている赤松真人選手も平安高校出身です。

◎経歴

1965年、広島カープに入団。
1968年、一塁手としてレギュラー定着。当時より1974年まで、背番号28。

プロ野球選手としては小柄ながら身体が頑丈であったことや、人気漫画「鉄人28号」に由来して「鉄人」の愛称で呼ばれるようになったのもこの頃からです。

1975年、ジョー・ルーツ監督の元、三塁手にコンバート。5番打者として4番の山本浩二さんとのY・K砲でクリーンナップを担い、球団初のセ・リーグ優勝に大きく貢献します。

その後、1987年現役を引退されるまでの23年間に輝かしい記録の数々を残されました。

連続試合出場記録の世界記録を樹立した人物でもあり、ニューヨーク・ヤンキースのルー・ゲーリッグの世界記録を更新し、現役引退までに2215試合連続出場を果たしています。

(参考文献:ウィキペディア+Amazon.co.jp)

◎主な記録

2215試合連続出場※日本記録
678年試合連続フルイニング出場※歴代3位
22連続シーズン盗塁※日本タイ
20試合シーズン2桁本塁打※歴代4位タイ
13連続シーズン20本塁打以上※歴代3位タイ

◎通算成績

2677試合出場 ※歴代5位
2543安打   ※歴代5位
504本塁打   ※歴代7位タイ(張本勲)
1448打点   ※歴代11位
266盗塁    ※歴代39位
161死球    ※歴代3位
1587三振   ※歴代9位
打率.270

◎主な表彰

国民栄誉賞 (1987年)
広島県民栄誉賞 (1987年)
京都市市民栄誉賞 (1987年)
新語・流行語大賞 特別賞 (1987年、「鉄人」)
野球殿堂競技者表彰(1996年)

衣笠さんの魅力は、なんといっても、ボールを怖がることなく、全打席フルスイングという思い切りのよさでした。

デッドボールを何度も受けながらも、紳士的に対応する姿が印象的で今でも懐かしく思い出されます。

引退後の1988年以降は、TBSの野球解説者として活動され、結局指導者として再びユニフォームを着ることはありませんでした。

広島ファンで、衣笠監督の誕生を待ち望んでいる人も多かったと思いますが、これには諸説あるようで、おそらくご自身が指導者向きではないと自覚され、固辞されていたのではないかという説もあるようです。

◎主な著書

「水は岩をも砕く」

「野球の神様がいた球場 広島市民球場とカープの軌跡」

「衣笠祥雄監修、野球と野球人を考える会編 野球道とは何か」

「野球の夢一途に」

「人生、フルスイング」

「ルー・ケーリッグを超えて―忍耐野球の軌跡」

「お父さんからきみたちへ―明日を信じて」

「自分とどう闘いつづけるか―継続こそ力なり!」

「限りなき挑戦―鉄人と呼ばれるオレの野球人生」

などがあります。

■衣笠祥雄(きぬがさ さちお)さん家族

衣笠さんのプロ野球選手としての偉大な功績の影で、ずっと衣笠さんを支えてきたご家族の存在も気になります。

◎お嫁さん

父親が在日米軍人、母親が日本人のハーフである衣笠祥雄氏。少年時代は、「野球選手になったら、でかい家を買って綺麗な女と結婚する」と夢見て、よく車で約1時間かけて岩国基地まで遊びに行き、現地で仲良くなった兵隊達とよく飲み明かしていたそうです。

衣笠さんのお嫁さんは衣笠正子さん。ほとんど情報がありませんが、1987年国民栄誉賞受賞の際、当時の中曽根康弘首相と一緒に夫婦で写っている写真がありました。

とてもお綺麗な方です。まさに有言実行です。

◎子ども

子供さんについては、元俳優の衣笠 友章 (きぬがさ ともあき)さんという息子さんがいらっしゃいます。とても凛々しい爽やかイケメンです。

名前:衣笠 友章 (きぬがさ ともあき)
生年月日:1977年4月23日(40歳)
所属:元クリエートプロモーション
職業:2009年より加賀電子株式会社広報室のサラリーマン

主な出演作品

ショムニ 第1シリーズ – スペシャル2(1998年 – 2000年、フジテレビ) – 小堺啓介 役

レガッタ〜国際金融戦争(1999年11月20日 – 12月4日、NHK)

菜の花の沖(2000年12月4日 – 12月8日、NHK BS-Hi・2001年1月4日 -2月1日、同総合) – 文治 役

てのひらの闇(2001年2月11日、テレビ東京) – ヨシ 役

大河ドラマ「北条時宗」(2001年、NHK) – 佐志留 役

水戸黄門 第37部 第6話(2007年5月14日、TBS) – 沢田兵衛 役

土曜時代劇「陽炎の辻〜居眠り磐音 江戸双紙〜」 第2シリーズ 第1話(2008年9月6日、NHK) – 参三 役

◎お別れ会について

お通夜は4月24日都内の葬祭場でしめやかに執り行われたようです。

お別れ会については、現段階ではまだ公表はされていませんので、公表されましたら追記させていただきたいと思います。

なお、広島東洋カープは、28日の本拠地マツダスタジアムでの阪神タイガース戦前に黙とうを行うと発表しています。

■衣笠祥雄(きぬがさ さちお)さん無類の洋楽好きな一面も

ビヨンセ、アリアナ・グランデも守備範囲!音楽に対しても「鉄人」だった衣笠祥雄さん。

実は球界一の洋楽通でもありました。小学校のころからエルビス・プレスリーを聴き、高校時代にはビートルズ、そしてレイ・チャールズに出会い、音楽の素晴らしさに目覚めたそうです。

以来、無類の洋楽好き。家にはオーディオセットを置き、所蔵するLPレコードが200枚以上を数えるとラジオで語ったこともあります。

その知識がいかんなく発揮されたのが、TBSラジオで2007年から2010年まで不定期に放送された番組『鉄人ミュージック』でした。

『鉄人ミュージック』のディレクターを務めたTBSラジオの鳥井泰伸さんによると「番組のきっかけは西武ドームでの雑談」だったそうです。

番組ディレクターも驚く知識量で、「『どんな曲を聞くんですか?』と聞くと、ブラックミュージックとか洋楽がバンバン飛び出てくる。僕も音楽が好きだったので『衣笠さん、番組作っていいですか』と聞いたのがスタートでした」

番組タイトルは衣笠さんの代名詞と音楽を掛け合わせた『鉄人ミュージック』。ちょっとふざけた名前で、怒られるかなと思ったが、衣笠さんは笑ってOKをしてくれた。

当初は夕方のスポーツ情報番組内の5分番組で1曲を紹介していたが、やがて交流戦などの影響で中継の谷間を埋める不定期の1時間番組となった。

番組中に流れる9〜10曲は全て衣笠さんが選曲したもの。パソコンやiPadも自在にこなした衣笠さんは、その日の番組でかける曲をメールでスタッフに送った。

「普段はブルースとか、カントリーを聞いていたそうなんですが、選曲はマイケル・ジャクソンからR&Bまでと幅広かったです。驚いたのはレディー・ガガですかね。ビヨンセ、アリアナ・グランデもかけてましたし『最近はブルーノ・マーズもいいね』と言ってました」

無骨な印象もあるカープ時代の鉄人・衣笠のイメージからは想像できない、軽やかな選曲。

「衣笠さん本人が選んでいるのか、と疑われたこともありました。けれど、本当に衣笠さんが選んでいるから、こだわりが強いから困ってるんですと周りには言ってました(笑)」

例えば選曲は、季節や天候、その時の気持ちで変えるようにしていた。

「現役時代から気持ちを高ぶらせる練習前にはロックなどハードな曲、練習後に宿舎に帰るバスの中では落ち着かせるためジャズを聞いていると言ってました。音楽にすごくこだわりがある方でした」

番組の6代目アシスタントを務めた宮崎瑠依さん

普段は温厚で優しい衣笠さんだったが、激怒した時も理由は音楽だった。

「番組で交通情報を流す際にバックで流れるBGMは僕が選んでたんです。ある時、某アイドルの曲を流したら、CM中にすごい剣幕で怒られましたことをよく覚えています(苦笑)」

1か月前には次の放送予定を教えてほしいと鳥井さんに頼んだこともあった。真剣に曲を選ぶためだ。

「衣笠さんだから片手間で選んでいると言われたんですけど、本当に好きでこだわってやってもらってました」

buzzfeed.com

音楽でも「鉄人」ぶりを発揮した衣笠さん。鳥井さんは去年の9月に番組を放送しようとしていたが、衣笠さんの予定が合わずに断念。「また音楽の方も頼むよ」と声をかけられていたが、結局それが最後となりました。

番組では選曲以外にも、次々に飛び出す衣笠さんの名言も売りでした。

鳥井さんが特に印象に残っている言葉が「人間、欲望がなきゃダメだ」。

「野球でどうやってのし上がっていくかという際の話で『欲望は一見ネガティブに捉えられるけど、欲望がないと上には上がれないし、欲望があるから苦しい。欲望は悪くない』と話していて、衣笠さんならではの言葉だなと感じました」

音楽に関しても、娘さんに最新曲を教えてもらったり、グラミー賞を毎年欠かさず見るなど、貪欲にアップデートを心がけた。


なおTBSラジオでは27日午後8時から、衣笠さんの追悼番組を放送する予定だそうです。

まとめ▼

今回は、赤ヘルの”鉄人”こと衣笠祥雄さんについて書いてまとめてみました。

現役時代、常にフルスイングでファンを楽しませ、多くの勇気と希望を与えて
くれた衣笠祥雄さん。本当にありがとうございました。そして、お疲れ様でした。
安らかに休まれますよう、お祈りしたいと思います。

最後に、衣笠祥雄さんの名言と、現役時代の映像で、衣笠祥雄さんを偲びたいと思います。

■衣笠祥雄さんの名言

(3年生の春、夏に甲子園に出場した時は、どんなことを思いましたか)自分のプレーは忘れたけれど、入場行進だけは覚えている。伝統校・平安のユニホームを着て、グラウンドに出たときの

晴れがましさ。やっぱり、一生の思い出ですね
(高校野球にしかないものは何だと思いますか)自分の成績を考えず、学校の勝利のためだけにプレーするという純真さ。プロと違って、自分が打っても、学校が負けたら終わりですから
現役時代、周囲からは鉄人と呼ばれていても、やはり自分の中の不安と常に闘っていました

鎌倉のお坊さんが書いた「ただの人であれ」というタイトルの本が印象に残っています。

ちょうど79年の大スランプの時に手にしたんです。追い詰められた時に何度も何度も読みました

誰よりも故・根本陸夫さんにはお世話になりました。入団3年目に監督としていらっしゃったのですが、ひと目見た時から、この人には逆らえないと感じました。人生の箍(たが)ははずしちゃいけないと教えられました
(これまでの人生で最大の買い物は?)65年、入団直後に買ったアメリカ車フォード・ギャラクシーです。ところがこれが大問題。監督がマツダの小型車に乗っている時代でしたから、18歳の若造が何をやっていると大目玉を食いました
前々から60歳を過ぎたら子供と一緒に野球をする時間を持ちたいと思っていました。全国を回って、そういう機会が持てればと思っています。とはいえ、あんまり社会性がないので、気楽な生き方が一番というのが本音なのですが
現場が一番面白いというのは、誰よりも自分が一番わかっています
(引退後約20年間もユニフォームを着ていないことについて)今も広島に帰るといろいろな人から「なぜだ」と怒られます
僕自身、自分がつくった世界記録が本当にすごいものなんだと知ったのは、96年にカル・リプケンが僕の記録を越えてくれた時でした。現役時代はひたすら毎日のゲームで頑張ることしか考えていなかったのですが、リプケンが出てきて、その足跡を冷静に見られるようになった。本当にすごいことをやったんだなと実感できたんです
自分が思っている以上に、米国のファンは僕のことを知っていてくれる。野球に対する思いの深さが違うという感じがします
(スランプで連続試合出場記録が危なくなったとき)本当に古葉監督にはご迷惑をおかけしたと思います。自分としてはあの時記録を切ってほしかったんです
なぜ、もう少し頑張れないのかとも思う。自分にご苦労さんとは言わない
可能性を求めて野球を続けてきたが、走、攻、守の三拍子そろった野球ができなくなった
私にあと10センチ背があり、20キロ体重があれば、また違った野球があったでしょう。でも(空振りは)この身体で「遠くまで飛ばしたいんだ」っていう気持ちの表れでしたよ。まぁ23年プレーし、504本打てたので、そういう意味ではあながち、あれも間違いではなかったのかもしれませんね(笑)
(衣笠さんといえば豪快なスイング)空振りね(笑)
関根潤三さんや広岡達朗さんに育てられた。ルーツは、チームにやれば勝てるんだという意識を植え付けた
まずキャンプのキャッチボールで思い知らされました。世の中には野球の上手い人が、こんなに大勢いるのかと。さらに打撃捕手を務めて、打つほうでも差を見せつけられて、まぁ落ち込みましたよ。自分はここに来ては、いけなかったんじゃないかってね
実は、私は入団するまでプロ野球を観たことがなかったんです。契約が決まり、初めて甲子園で阪神対広島戦を観戦したんですよ(笑)
当時、6球団からお話があったそうですが、どこに入れば自分が生きるのかと考え、私自身が(広島カープを)選びました
カープに入った頃、「痛いと言ってくれば休ませてやる」という中で育てられた。要は代わりはいくらでもいるということです
多少痛くても、試合しているほうが精神的に楽だもの。それはきっと、育った環境
試合のある日に、休みたいと思ったことは一度もないですよ
初めてケガをすると、どうしていいのか分かりませんが、一つずつ山を越えていくことで、このケガなら100パーセントは無理にしてもどの程度できるのか、試合に出られるレベルにはどう持って行けるのか、さらにはどういうケアが大事なのかを学ぶことができます
やはり本当のレギュラーと呼ばれる選手には、135試合ぐらいはちゃんと出てもらいたい。出たり休んだりの繰り返しでは、あてにできませんから
(全試合出場できる選手について)阪神の金本はもう別格ですけど、意外と見逃されがちなのが巨人のラミレス。彼は休むような故障も本当にしないし、しっかり結果も残し続ける、頼もしい存在ですね。ヤクルト時代からそうだったでしょう
オーダーを固定できるチームはやはり強いです。例えば投手を10人、野手も12~13人で1シーズンまわせれば、ちゃんと計算ができる。その上で、スピードがある選手が揃えば理想的です
(どんな選手を揃えてチームをつくってみたいですか?)タイプ的に好きなのは足が速い選手なのですが、やはりチームとして考えると、まずは身体が丈夫な選手となりますよ
芝の長さでも打球は変わりますし、守備一つとっても地の利というのかな
私の想い出は広島市民球場にありますが、どうしても老朽化や施設面に不備もありました
後楽園球場のスタンドを見てビックリしました。広島ファンの赤い帽子と巨人ファンの黒い帽子で見事に2つに分かれている。スタンダールじゃないけど『赤と黒』の世界ですよ(笑)

私は2700試合近くに出場していますが、一番忘れられない試合と言えば、初優勝を決めた試合

私が子どもの頃、憧れたように、今の選手は子どもたちの憧れの人になって欲しいのです。そうなることで、また歴史がつながっていく。プロ野球が衰退してしまったら、先人にも次の人たちにも申し訳が立ちません
プロ野球80年の栄光の歴史は、先人たちの努力の賜物です。この努力に対しては、いくら感謝しても感謝し過ぎるということはありません。現役のプロ野球選手諸君は、ここを分かってほしい
日本の野球の世界、とくにプロ野球の世界が、私を生かしてくれる、素晴らしい世界だったからです
私は野球に救われたのですから。たまたま中学で野球を知り、それに打ち込むことで、世の中の落とし穴にはまることがなかった。この落とし穴は、中学でも、高校でも、大学でも、社会人でも、その段階、段階で必ずあります。私は、野球のおかげでその落とし穴を避けることができたのです
自分がここにいるのは、可能性があるということだ。可能性がなければ、この場所にはいない。そう思って、いつも自分を信じることだ
他人に好かれなくてもいいから、他人に嫌われることだけはするな
夢に追いつくためには、まず足もとの小さな自信からつけていこう。やがてそれが、夢をつかむまでになると信じて
チームが勝つために、いまなにをすべきか。僕よりも、外す決断をした古葉さんの方が苦しかったと思う
どんな時でも、投げてくる球をしっかり見据えて、フルスイングしないと何も残らない。明日につながらないんです
誰にも好きなことはあるだろう。やっていて飽きないことがあるだろう。だからお父さんは言うんだよ。何でも好きなことをしなさいって。好きなことには、きみたちの素質があるからなんだ
野球が大好きでした。こんな好きなことを一日たりとも休めますか
自分でできることを、自分なりに一生懸命やってきた。ただそれだけですよ
ひとつハードルを飛び越えられれば、必ずひとつ力がつく。それが自信になって、次にはもう一段高いハードルを越えられる
「現在(いま)」を大事にして精一杯やるから、「未来(さき)」があるんじゃないでしょうか
自分がどんな人間で、何ができるか、毎晩、床に入って二、三分でいいから考えてみること。夢はそこから生まれてくる
人生なんて案外、「他人」の一言が決めてくれるものなのです
一番の根本は、自分を信じ切れたかどうか
人間、自分ひとりでできることには限界がある。だけど、人と力を合わせると、不思議なことに不可能も可能に、夢も現実になっていく。だから、出会う人を大切にするんだよ
運というのは、
つかむべく努力している人のところへ
訪れてくる。

誰にも好きなことはあるだろう。
やっていて飽きないことがあるだろう。

だからお父さんは言うんだよ。
何でも好きなことをしなさいって。

好きなことには、
きみたちの素質があるからなんだ。

どんな時でも、
投げてくる球をしっかり見据えて、
フルスイングしないと何も残らない。

明日につながらないんです。
人生だって同じかもしれませんね。

私に『野球』を与えてくれた『神様』に感謝します

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